ロブションは「ロブション自伝」で次のように言っています。
もっとも、音楽の批評家は、オペラの席料を払うことはないですし、映画批評家が、映画を見るときに入場料を払うこともない。文芸批評家も本の会計をすることはありません・・・・・・。それなのに、どうして、美食批評家はそれと違うというのでしょう?
「タダ飯肯定派」も同じことを主張しています。しかし私が思うに、オペラ、映画、本の「タダ提供」と「タダ飯」とは根本的な違いがあるのです。
確かにそれらの批評家は支払いをしないで「批評」をしているかもしれません。しかしその「対象」は、彼ら批評家の為だけに開演、上映、出版されているわけではないのです。
オペラは批評家1人の為にわざわざ開演していません。映画もしかり。本も何千、何万部の中の1冊です。
しかし、美食批評家に提供される料理は彼らだけのために造られたものであります。ロブションはポーションや調理では差をつけないと言っていますが、タダで提供しようと考える人が本当に差をつけないでしょうか。支払いで大きな便宜を図る人の言葉に説得力はありません。
また、オペラ、映画、本の提供と料理の提供は、同じ「タダ」でも経営者側(オペラや映画の主催者や出版社)とレストランの経営者では、負担率が桁違いです。
本や映画と違って、オペラは料理と同じように何万円もするでしょうが、主催者側の負担率はレストランに比べて桁違いに低い。
何百人もの有料入場者の中で、批評家をタダにしただけの収入減と、せいぜい何十人しか入らないレストランで2名分をタダにするための収入減では負担率の次元が違います。また、オペラや映画の「タダ入場」は単にその分の収入が減るだけですが、レストランの「タダ飯」の場合は収入がなくなるだけではなく、食材使用で実際の出費も伴います。
自動車批評だって、批評家に自動車をタダでくれてやるわけではなく、せいぜいサーキットへ連れて行って試乗させるだけのはず。レストランとは同じ「タダ」でも負担率が違うのです。
1日の売り上げの5%から10%に当たる収入減(20名から40名までのキャパの店と仮定)という大きな犠牲(タダ飯)をなぜレストランが負うのか。それは実力以上の評価を貰いたいための便宜供与以外の何物でもないのです。
まったく見返りを期待しないで「タダ飯」を提供する料理人がいたとしたら、それは慈善事業者かバカのどちらかだと考えます。
ロブションはジャーナリストが小切手を切るか切らないかで(今時はカードでしょ。古い人ですね)、意見が変わることはないと言っていますが、その根拠を示していません。意見が変わらなくてもタダ飯を提供し続けるとしたら、ロブションは経営者失格であります。
ロブションの全盛期、2つ星から3星になった当たりの「ジャマン」に山本益博氏は足繁く通ったと聞いていますが、実名を名乗り、自称ロブションと昵懇と言っている人からロブションは食事代を支払わせたのか。マスヒロさんは支払っていたのか。
日本の店でも、「ラトリエ」はじめ旗艦店の「シャトーレストラン」まですべて絶賛しています。ジャーナリストには請求しないと豪語する店にそれでも支払ったというならば、マスヒロさんは1枚くらい「領収書」を開示しても罰は当たらないと考えます。
私は「ヨイショライター」で「ジャーナリスト」ではないと言われたら返す言葉はないですけど。
友里掲示板
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