何人もの読者の方からいただいた情報です。今月発売の「おとなの週末」で、山本益博さんが前後の脈絡なく「怒り」の文章を書いているというのです。発売日にざっと読んで私も気になっていたので、本日紹介させていただきます。
「コート・ドール」というフレンチ訪問のところで急に「次郎」が登場します。要約してみますと、
酢飯に合う魚だけしか仕入れていない「次郎」なので、私(マスヒロさん)は握りばかり食べているのだ。それを「からかう輩」がいる。
そしてこの次に書かれる文章が私には意味がわかりません、引用しますと
握りずしを握ったそこからつまむのを非常識というのだ。
友里の入力ミスではありません。原文そのままです。
「そこからつまむ」とは何を言いたかったのか。怒りで興奮して文が乱れたのかもしれませんが、編集サイドがフォローしていただきたかった。
マスヒロウォッチャーである友里はマスヒロさんの言動だけではなく、彼に関する賞賛や批判にも結構注意してウォッチしています。そんな私ですが、握りばかり食べていると「からかっている輩」を見たことがありません。何かの勘違いではないでしょうか。
「次郎」は絶賛しているほどの鮨屋ではない、請求が高すぎる、客を追い立てるように早く食べることを強要する、傲岸不遜すぎる、といった批評なら、私を含めて見たことはありますけど。
また、「ブノワ」のところでも突然何の脈絡もないお怒り文がでてきます。引用します。
週刊誌などの専門家気取りの素人料理評に惑わされないことが大事。誰でも書ける感想記事など、一週間の生命でしかないのだ。感想でケチをつければつけるほど、本人の力量が見えてくる。たいこもち(変換出来ず)が客を褒めまくるのは、相手をいい気持ちにさせるだけではなく、自分の力量、正体を隠し通す技なのである。感想と批評を間違えないで欲しい。感想なら誰でも書ける、ケチをつければ読者の気を引く。しかしシェフの胸には届かない。コミュニケーションが成立しなければ、その感想は効力がなく、いつまでたってもシェフの渾身の料理を味わうことが出来ない。レストランではもっとも淋しい客のままである。また、辛口に見せかけた感想で他人の共感を得たい気持ちも十分に理解できるが、批評は本来孤独なものだ。
この情報を教えていただいた方々は、「友里批判」と言われていました。確かにそう感じる部分もありますが、私には「批判」ではなくマスヒロさんの「自爆」に思えてなりません。
マスヒロさん、急に「たいこもち」を持ち出してその役割を擁護しています。ご自身が「たいこもち」であることを認めてしまって良いのでしょうか。
私に言わせていただくと、マスヒロさんのいう「ケチ」(私の事だと受け取りました)は誰でも書けません。本人(友里)はそう思っていませんが、世間では「過激」とまで言われる友里評価(感想文ととるのは自由)のような表現を、飲食店やライターに対して他に誰がしているのでしょうか。名誉棄損で訴えられたほどの内容の「素人料理評」を書く人がいたか。
過食のオコチャマ・来栖けい氏を挙げるまでもなく、店や料理人に接近し「べた褒め」する料理評論家やヨイショライター、放送作家、業界人はマスヒロさんはじめいくらでも居ます。ネットのブロガーもほとんどがこのタイプです。マスヒロさんはご自分の「感想」が「店ヨイショ」ではないと思っているのでしょうか。
ヨイショをして料理人や店経営者の気を引き、「共感」を得たいマスヒロさんの気持ちは理解できますが、その行為が一般読者のためにならないことがまったくおわかりでないようです。
料理人や店経営者に「媚び」うらなければシェフ渾身の料理を食べることが出来ないというなら、私はその道を選びません。ほとんどの一般客や食通も、そんな卑下した行動はとらないでしょう。
たとえレストランで淋しい客になっても、人間として「さもしい人」になりたくないからであります。
マスヒロさんは完全に世間一般の常識と乖離した勘違い人間になってしまったようです。
「批評は本来孤独」と言っていながら、「次郎」や「みかわ」などの店主と和気藹々につるむ様をマスコミに垂れ流すマスヒロさん。言っていることとやっていることが180度違っているのがわからないとしたら、「裸の王様」以外のなにものでもありません。
昨年週刊誌の取材で約束した「領収書の開示」や「幻冬舎への法的対処」、どうなっているんでしょうか。
友里掲示板
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