往生際が悪すぎるよ、服部幸應先生

いやー、こんな有名な人がこれほど往生際悪く、その場凌ぎの言い訳をして自己保身目的で周囲に言い繕っているとは思いませんでした。
私は声を大にして申し上げたい。深く考えずその場凌ぎでいい加減な言い訳を繰り返していたら、事は収束するどころかどんどん大きくなりますよ、と。
先週末、あるところから持ち込まれた服部先生が関係者へ発信しまくったと思われるファックス、あまりに肝心な事実を隠して都合の良いところしか述べていない文面に、友里は呆れるというより服部先生が可哀そうになりました。
よくもまあ、裏を取られたらすぐバレるような適当なことをこうまで並べられるものだ、他人は言われたことを疑いもなく信じると思っているのか、人は裏を取らないと思っているのか、大々的にこんなファックス送って日刊ゲンダイ、週刊文春、そして友里側に流れないと思っているのか、と服部先生の単純な思考回路に同情したくもなりました。
「HATTORI食育クラブ会員各位」の宛名で「学校法人服部学園 服部栄養専門学校 理事長・校長 服部幸應」名で出された文面の内容は要約すると以下のとおりです。
1、「TOMOSATOブログ」、「日刊ゲンダイ」、「週刊文春」にて服部幸應ならびに当校について「虚偽」の報道がされた。
2、内容は情報提供者の「検証不足」と「誹謗中傷」の偏った情報に基づくもので、名誉を傷つけられ情報提供者への法的処置を検討している。
3、公的文書等では本名である「染谷幸彦」を使用しており、通称名(服部幸應)とどちらを使うかは各機関の指示に従っている。
4、服部家と染谷家とのつながりは、昭和8年に実父の染谷栄が服部家の事業を継承したことからはじまる。
5、昭和7年に茂一氏が逝去し、子息は他界されていたから以前より事業運営に携わっていた茂一氏の寡婦である品子氏と服部栄によって継承が開始された。その際、染谷栄は服部道政を名乗り品子氏と共著を出版している。
6、服部家の事業の沿革、由来については茂一氏、品子氏、または両親である染谷栄・美以津双方から幼少より語られ伝えられていた。
7、ただ4年前に服部家と血縁のある方から、服部家の由来・沿革について公表することを差し控えるようにとの要望があり、「口伝」による由来を差し控えるようになった。
8、読者の嫉妬心・詐欺心を煽るだけのテーマを捏造し、論点の単純化と関係者の糾弾に終始するという今回の件に関して誠に遺憾に存じます。
最後の〆の一文、この記事を信用する人は嫉妬心や詐欺心を持つ人だけだと言い切るようなもので、まことに自分勝手、これこそ遺憾であります。
さて、このいい加減な書面を読んで、記事を掲載した日刊ゲンダイ、週刊文春が追撃するかどうか、他誌が後追いするかどうか、友里にはまったくわかりませんが、よくまあこんな都合のいいこと書いたなと思いますので、マスコミの皆さんにも参考になる矛盾点を簡単に書かせていただきます。
1、 友里ブログ、ゲンダイ、文春の記事のどこが「虚偽」であるか、具体的な指摘がありません。実際は「虚偽」ではないので指摘できないだけであります。
2、 同じくどこが「検証不足」で「誹謗中傷」なのかが具体的に記されていない。果たして「家柄偽装」の実態を追及したことが「名誉棄損」に値することなのか。世間に虚偽の家柄を吹聴してマスコミの注目を集め露出し、結果自分の仕事を有利にしている人の実態を問題視することが名誉棄損になるのか。そんな世では「詐称」や「偽装」が蔓延してしまうではないか。「詐称」や「偽装」の疑いを放置しておけと主張するのか。法的処置を検討している情報提供者とは、記事を書いた「週刊文春」や「日刊ゲンダイ」のことなのか、非常に曖昧である。
3、 そんなことを問題にしているのではない。TVなどマスコミに露出するために自分の「箔付け」として言いふらした、「永禄4年からつづく『服部流割烹』の家元の直系である」、「服部流割烹は武士の出陣の料理や作法を教えていた」、「祖父が明治に武士ではなく一般人向けに料理学校を開設した」、といったものが事実ではないのではないかと問題視しているのである。永禄4年からあったかどうかというよりそもそも「服部流割烹」が存在していたのかがおおいに疑問。実際、文春では「系図も書物もない」と服部先生は言っています。4年前に指摘されるまで両親に言われたことを信じていたといいますが、57歳といういい歳になるまで、戸籍名は染谷なのに系図も書物も存在しなくて「服部流割烹家元」の存在を本当に信じていたのか。墓参りや冠婚葬祭で親戚と交流すれば、中学生でもその真偽はわかるはずです。染谷栄氏や母親は亡くなっているので確認できないでしょうが、他の染谷家側の親戚、たとえば叔父、伯父、叔母、伯母などの中で、一人でも「服部流割烹」なる言葉を口に出した親戚はいたのだろうか。従弟でもいい、その証人を出さない限る単なる「苦しい言い逃れ」としか他人は受け取りません。
4、 勝手に実父が継承したと断定してもらっては困ります。その大前提も今回の問題点であるのですから。
5、 文春にもありますが、品子氏・茂一氏の共著は今回の疑惑が表ざたになってから偶然にも服部先生が見つけたものです。ですから、品子氏と茂一氏が一緒に事業継承したとの証拠には成りえない。共著があれば共同事業しているというならば、友里はJCオカザワと何か飲食業界で共同事業をやっていることになるのでしょうか。
6、 服部幸應先生は、茂一氏や品子氏と本当に接触があったのか。ここに面白いものを見つけました。
http://megalodon.jp/?url=http://www2.cosmo-oil.co.jp/dagian/39/16.html&date=20070916091614
文中には、「明治10年代、13代家元・服部茂一の時に、関東へ出て来たのです。」とあります。ということは、服部茂一氏は明治10年代にすでに20歳を超えていた成人であったことが推測されます。服部先生にとって有利になるよう仮に明治15年に20歳としましょうか。家督を継いだ20歳の若き青年が上京を決意するとは思えませんけど。つまり西暦1882年に茂一氏は20歳とします。服部先生の生まれ年は1945年ですから、先生が生まれたとき既に茂一氏は83歳となります。文春での発言と違って、このファックスで服部先生は「茂一氏からも服部家の沿革・由来について幼少より語られてきた」と述べていますが、先生が物心ついた頃はどう贔屓目に見ても茂一氏は90歳近くとなるはずです。上京してきた歳が20歳ではなく30歳くらいでしたら、100歳近くとなってしまうわけで、かなり無理がある言い訳だと誰でも考えるのではないでしょうか。
というか、服部先生の釈明ファックスの上記5項では、茂一氏は昭和7年に亡くなっていると書いています。つまり昭和20年生まれの服部先生と茂一氏とは接触することはできません。しかし、6項では茂一氏からも幼少より服部家の事業の沿革・由来を語られ、伝えられたとまったく矛盾の発言。だいたい週刊文春では、「茂一さんは僕のことを本当に可愛がってくれて、僕もおじいちゃんと呼んででいました・・・」とあります。おいおい、時系列的に完全に矛盾していますよ、服部先生。昭和7年に亡くなった茂一さんがどうやって昭和20年生まれの服部先生を可愛がり、また服部先生は茂一さんを「おじいちゃん」と呼ぶことができるのか。
7、 服部家の由来・沿革について公表するなとのクレームではないはず。「服部家の末裔」だと思わせる紛らわしいことを言うなとのクレームではなかったか。だいたい、その服部茂一氏や服部家は、「自分たちは永禄4年からつづく『服部流割烹』家元の直系だ」と世間に言っていたのでしょうか。信じていたのでしょうか。今でも信じているのですか。もし言っていなかったとしたら、服部家は何ら永禄4年からあるとされている「服部流割烹」と関係ないとするなら、服部先生の自慢話はまったくの架空話となり「家柄偽装」となるでしょう。問題は、服部家の事業を継いだということではなく、「服部流割烹」の存在そのものでありますが、現在は実妹が「17代」ではなく「初代」であると認めていますから、真偽のほどは歴然です。
実にその場凌ぎの言い訳かお分かりになると思います。
染谷家の親戚に確認する、服部茂一氏の縁者に確認する、といった取材のイロハである「裏取り」をされればすぐ真実がわかると思うのですが、服部先生はそこまで考えていないのでしょうか。
また、服部茂一氏との関係はまったく矛盾。昭和8年に実父である染谷栄氏が料理学校を開き、品子夫人と服部道政氏(実父の染谷栄氏のこと)の共著を強調したいがため、服部茂一氏は昭和7年以前に亡くなられたようにしなければならなかったのでしょうが、それにより生前の茂一氏と服部先生との接触を主張した文春などへのコメントと完全に矛盾することになりました。
昨年11月20日に読売新聞紙上にあった「服部家は室町時代から続く、武家の出陣料理と作法を教える『服部流割烹(かっぽう)』の家元」との紹介記事に対して、服部先生は文春で「記者が間違った資料をもとに書いたことであり、担当者にクレームを入れ、謝罪も受けている」と堂々と発言しています。
しかし私の常識から考えますと、大新聞の記者が間違った内容の記事を書いてしまったら、服部先生へ謝罪する前に訂正記事を載せるはずです。服部先生が気安くこんなこと言ってしまっては、その担当記者の「記者生命」に関わる大問題。記事内容の間違いを会社に報告せず、ウヤムヤにするため個人的に謝罪して収束をはかることは普通考えられません。
こんな大事件、読売新聞が社内調査すればすぐわかることであります。結果次第では、服部先生はあらたに読売を敵にまわすことになります。
こういっては何ですが、友里のところには服部先生からのメールが2通あります。私信でありますから今の段階で公開することはしませんが、その内容は、先週末に先生がファックスしまくった書面とはかなり違うニュアンスなのです。相手によって認める内容を変えているということでしょうか。
最後の数行は友里に武士の情けを期待するような「名文」なのですが、ここまで来てしまっては苦しい言い訳を連ねるのではなく、事実をありのまま世間に伝えること、それがこれ以上傷口を広げない最良な対策だと思います。
これは、古くは雪印乳業(読者のご指摘で訂正しております)、不二家、そしてミートホープの問題で先人が自ら犠牲になって立証してきたことであります。
それにしても服部幸應先生、いつまで、どこの代まで「服部姓」を名乗り続けさせるのでしょうか。有名人やその子女の結婚をクローズアップした企画を1ページで毎週掲載している有名週刊誌があるのですが、そこで服部先生のご子息の結婚が取り上げられていたそうです。勿論ご子息は「染谷」ではなく「服部」としてだけ紹介されていたとか。
ペンネーム、ビジネスネームを本人だけが名乗るなら構いませんが、それを息子まで継承させるとはなかなかできることではありません。ご子息のもとへ嫁がれた夫人も染谷と服部の使い分けを一生義務付けられるのでしょうか。いや、もし子供が誕生した場合も、服部先生は孫にも服部姓を名乗る義務を負わせるのでしょうか。息子さんが染谷で父親が服部では世間が混乱するというので息子さんにも名乗らせているのでしょうが、内孫の姓が染谷でも混乱しますね。こんなビジネスネームの継承、空しいとは思わないのか、友里には理解できません。
服部先生は、血縁がなくても名乗っているではないかと歌舞伎の襲名を例えにだして話をすりかえていますが、歌舞伎の襲名は興行元の松竹がオーソライズしたものです。相撲の四股名もそうですが、いずれも親方や協会の了解のもとでの話、永禄4年から続いているという「服部流割烹」そのものの存在を今問われているのですから、実在する伝統芸能、古典芸能などの襲名継承とはまったく違います。
果たして上京前の服部茂一氏、そしてその父親、祖父など服部家が「服部流割烹」を永禄4年から継承していたのでしょうか。
服部茂一氏から事業を継承したとの真偽は些細なことであります。問題は、永禄4年から続いていると服部先生が自慢していた「服部流割烹」が存在していたのか、本当の服部家がそれに関与していたのか、であります。