「美学」や「矜持」という言葉は死語になったのか

私は以前から料理人の主張の矛盾を突いてきました。「客の事を第一に考えている」と雑誌で言ってながら実は客無視で利益だけを考えている店がなんと多いことか。何も偉そうなことを言わずにせっせと儲けている店の方がはるかにマシであります。
料理店の話からは脱線しますが、最近話題になっている件でも主役の矛盾がかなり目立っていて私には聞くに堪えないもの。彼らには「美学」や「矜持」という拘りがないのでしょうか。
たとえば小泉純一郎さん。時期も時期、靖国参拝で国論が二分しているようです。参拝がいいのか、悪いのか。他国の言いなりになっていいのか、国益を優先するのか、分祀すればいい、いやできない、といった議論に終始しがちですが、私は違った突っ込みをしてみたい。
確かに参拝は個人の自由、心の問題であります。「英霊に感謝したい」と年に一度の参拝をしている小泉さん。しかし、本当に感謝してるのであれば、毎日夕食の前でも寝る前でもいい。「日本の繁栄、そして私小泉純一郎が今日あるのは皆様のおかげです」と毎晩靖国の方へ向かって祈ればいいのではないか。わざわざ正装して年に一回だけ行くよりも、毎日の感謝の祈りの方が大事。車で近辺を通りかかった際にも、毎回その方へ頭を下げ感謝したらどうか。目立つ年に一度のパフォーマンスより、人目につかない日頃の感謝、祈りで充分その思いは伝わり、英霊たちも喜ぶのではないでしょうか。
人知れず英霊に常日頃感謝し続ける、玉串料も誰にもわからないように代理の人に渡して持っていってもらう。「心の問題」だからこそ、パフォーマンス(形)ではなく本当の気持ちが重要だと思います。誰にもわかってもらえなくとも「自分の心の問題」だからかえって隠れて行動する。格好いいではありませんか。
人に自慢せず、誰にもわからずやり遂げる。これが「美学」であり「矜持」であると思うのですが、ただの
パフォーマンス重視の政治屋に要求することは無理というものかもしれません。
いや、俺は毎日頭を垂れて感謝、祈り続けているというのなら、物議をかもしてまでわざわざ年に一回目立っていく必要はないと考えます。
しかし、本当に最近はこの「美学」、「矜持」という言葉が重要視されなくなったと感じるのは、友里が年とってしまったからでしょうか。