出版関係者から「褒めまくりのガイドの方が批判本より売れる」と聞いたことは前に書いた記憶があります。
TVの飲食店紹介番組も同じだと思うのですが、世には「美味しい店を知りたい」という方が大半なのではないでしょうか。そんな土壌のところで、「あの店は実は高くて美味しくない」なんて出しても、客(読者や視聴者)が納得するはずがありません。
行ったことがない店ばかりの批判的な話を聞いてもチンプンカンプンでしょう。批評というスタイルがあまり確立されてない日本では尚更のことです。
よって、友里征耶にTVや雑誌の仕事の依頼が少ないのは当たり前なのですが、ヨイショに対しての追求が辛口より遙かに緩くて良いのでしょうか。
辛口(自分ではそう言っていませんけど)の私のスタンスなどについての厳しいご意見、批判は当然です。人にやっても自分は嫌だ、なんて幼稚なことは申しません。
ただし、ヨイショの根拠がいい加減でもそれは許されるのでしょうか。
今さかんに「モウラ」のコメント欄で、一部のアンチの方々が店やシェフの足を引っ張ってでも私の訪問時期の古さを追求しようとしております。指摘された1店は確かに掲載時期からさかのぼって1年以内の訪問ではないですが、2年以内には充分入っております。「モウラ」の仕事を引き受ける際、「3年も4年も訪問していないのは問題だが、最新でなくてもいい」との条件提示がありましたが、変な突っ込みを入れられないようほとんどの店を再訪しているのが現実です。たまたま掲載時期が早かったため、件の店は直前再訪する時間がなかったこと、料理人の性格や彼と関わったエピソードを書いた方が「性格の悪い料理人の店にうまいものなし」の定説を説明しやすい、過去に有名ライターはじめ多くの客とのもめ事がオープンになっている店だった、といった判断で直前訪問をしませんでした。
今考えるとやはり無理してでも再訪していたほうが突っ込まれずに良かったかなと脇の甘さを痛感しております。ただ、1年以上訪問していなかったその店を挙げて、みな未訪問で書いている、といった悪意ある妄想書き込みをしている個人(HN ド○○西さん)には友里征耶に恨みある店関係者、ミシュラン関係者としか思えない情熱を感じてしまうのです。
私への批判はいくらでも結構なのですが、それが目立ちすぎて、ヨイショ系のいい加減さは見逃しても良いのか。
たとえば犬養裕美子さん。3週間後に発売されるガイド本にあらかじめトップで2ページを用意してオープン前の「ナリサワ」記事を掲載した件。訪問期間があきすぎるのも問題ですが、オープン前に評価を決めてしまうのはもっと問題ではないか。
ミシュランナレ氏。対談で「シェ 松尾」のワインリストを問題にしました。売り切ればかりのリストなのにどうして「葡萄マーク」をつけたのか、ボトルで頼んでいないだろう、の質問に「我々が行ったときは売り切れではなかった」(意訳)と回答しました。でも、その店のソムリエに聞いたところ、5?6年前からリストを更新していないとのこと。売り切れは2年や3年前のことではないのです。やっぱりボトルで頼まないでリストを見ただけで葡萄マークを書いている?
でもこの矛盾、誰も追求しておりません。
先方がライバル視しているだけで私は意識していないJ.C.オカザワ。最近の著書では3年4年訪問していない店は取り巻き(サテライツと称する)を派遣したと書いてありました。でも友里征耶がこれを真似たらコテンパンに叩かれるでしょう。何しろ1年以上訪問していない1店だけでこれほど執拗に絡まれるわけですから。
それだけ友里は慎重に揚げ足取られず行動しなければならないという話なのですが、それほどの注目が拙著の販売数、仕事依頼数に比例していないのが残念であります。
でもここまで執拗に追求され、都度揶揄しながら反論を書いた「ル マンジュ トゥー訪問問題」、手ぐすね引いて待っているか少なくとも大きく意識している谷氏のところへは、時機を逸してしばらく訪問できなくなってしまいました。