ノーベル経済学賞なんて意味があるのか

昨夕の保釈になっての前園記者会見、元スポーツ選手の謝罪会見としてはほぼ満点に近かったのではないでしょうか。
「泥酔」を

どろすい

と発言した以外は。
しかし酒に絡む問題を起こした人にマスコミはすぐ禁酒を迫りますが、世間的には無名な己(取材者たち)も、どろすい、もとい泥酔して他人に迷惑をかけたことがないのか。

今回は、追いかけてきた運転手が前園の腕を掴んだことがキッカケだとの話もあります。腕を掴まれた段階で前園が

腕を圧迫されて痺れがとれなくなった(むち打ちと同じで、この症状の訴えだと医者含め他人は否定できない)

と逆にその運転手を暴行で訴えることも出来たのではないか。
つまりどんな状況でも先に接触するのは拙いということであります。

今朝のTVではゴンこと中山雅史が前園に対し

な~にやっているんだ、と思った

とか苦言を呈しておりましたが、中山氏に限らずサッカー関係者(特にサッカー解説者)たちは、前園逮捕のニュースを聞いて

しめた、これでライバルが減って仕事が増える

とほくそ笑んだのではないかと、性格の悪い、もとい、性悪説を肯定する友里は考えてしまうのであります。

さて昨日(日本時刻)に、ノーベル経済学賞の発表があったとの報道がありました。TVアナウンサーが

日本人で受賞していない唯一の部門

との話を聞いて、性格の悪い友里はふとある暴論を思いついてしまったのであります。

実は友里、小学校低学年のときの将来の夢は

ノーベル賞を取りたい

実態はわからなかったですが、何か凄いものだと思っていたのです。今でも凄く権威がある賞だと一応思っておりますので、よって

経済学なんてノーベル賞に値する学問なのか

という正論(暴論)に達してしまったのであります。
友里は前から言っておりますように

経済政策に正解はない

正解があれば、自爆論者でないかぎり国の指導者はその正解を履行しますから

不況や恐慌の心配は皆無

となるではありませんか。ところが現実は循環と言いますか、

好景気もあれば不景気もある
いつも不況や恐慌の心配をし続けならなければならない

という現実。だいたい未だに基本的な施策で

リフレ派と半リフレ派の決着がついていない

ではありませんか。つま~り、経済学は根本的に

なにも突き止められていない(正解がない、遊びみたいなもの)

友里得意の例えで言いますと、治療法をまったく開発していなかったと仮定して

医学界にノーベル賞を与えるのか

世にペストやレプラが氾濫している現状で、罹患するかしないか、治癒するかしないか、は運次第という状況では

ノーベル医学賞なんて悪い冗談

だと友里は考えてしまうのであります。
それなのになぜ無駄な努力の経済学があり、それにノーベル賞を与えるのか。

特効薬を持たない経済学界、

ノーベル平和賞どころか存在価値自体がないではないか

というのが、本日の友里暴論であります。

経済学者が国や会社の舵取りが出来ないのは周知の事実。
でもこんな正論、もとい暴論を吐くと、存在が無意味な経済学界まで友里は敵に回してしまうことになりそうです。