第764回 友里征耶の問題点 5店や料理人への愛がない
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- 2005年9月24日(土)
友里にはまったく彼らへの「愛」を感じない。
レストランと料理人は、
「愛」もって育てていかなければならない。
とよく私は批判されます。
一昨年は週刊誌の誌面でもそう指摘されました。
「愛」をもって事に当たる。
大の男が口に出すべきものかどうかは別にして、
ひびきの良い言葉ですし、
正面からは誰も異議を唱えることができないキャッチであります。
確かに子供やペットを育てる際、
愛情を持って当たることに私は、何ら異存はありません。
時には厳しさも必要ですが、彼らを包み込む「愛」、
口に出すのは恥ずかしいですが大事なことでしょう。
私の店に対する評価は確かに「生ぬるい」ものではなく、
歯に衣着せずズバッと指摘、
オブラートに包んで肝心の中身がなんだかわからないように
ごまかす事はしていません。
評価するところも併記していますが、指摘の部分が目立つ為、
そのように受け取る方もいらっしゃるのでしょう。
料理人や店経営者の言うことを鵜呑みにし、
何でも「凄い」と褒めまくる事が「愛」だというならば、
私の文には「愛」はないかもしれません。
しかし、それが本当に必要なのだろうか。
50万円前後で購入できるワインを
「流通相場も200万円以上」と開き直る支配人、
カード手数料を客に転嫁することを指摘しても開き直る料理人、
回転率を上げたいからか事前に許可なく次の予約を受付けて
客を追い出す主人、これらの私の指摘はかなり反響を呼びました。
しかし、彼らはもう成長過程の子供ではなく、
いい歳した立派な大人であります。
「愛」ある人は、
世間では50万円でもあの店は200万円で購入してしまったと信じ、
カードシステムを無視しても
料理がおいしければ手数料くらい客がもってもいいではないか、
沢山の客に味わってもらうには
追い立てられていやな目に合っても仕方ないではないか、
と本気で考えるのでしょうか。
200万円のワインはその後どうなったか調査していませんが、
手数料や追い出しは、私の指摘が原因ではないと思いますが、
そのような悪弊は改善されているはずです。
しかし、みんなが愛もって彼らの悪弊を見逃していたら、
同じような結果になったでしょうか。
性格が出来上がってしまった人間は、
「愛」もって見守るだけでは変わりません。
耳が痛くなる話も必要のはずです。
一生懸命頑張っている店や料理人に対して
「温かく見守る」というのは納得できますが、
それは店側と客との協調をはかる、
「性格の悪くない料理人や店経営者」
に対してだけで充分だと考えます。
よく恥ずかしくもなく「愛」だ、なんだと
連発される方がいらっしゃいますが、
私の知る限り、そんな方に限って、
紹介者など井戸を掘ってくれた人を飛び越えて
自分を売り込む、自分の商売の為には情報を売る、
といった「何でもあり」の厚顔の方だったりするものです。