第725回 料理が造れないと評価はできないか

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  • 2005年8月4日(木)
私は以前、あるジャンルの料理を習いに
料理人のところへ通ったことがあるのですが、
自宅などで自ら料理する機会を持たず今日に至っております。
かなり昔のことなので詳細を忘れてしまい、
当時のメモを読み返しても、もううまくは出来ないでしょう。
よく、料理が造れないくせに評価ができるか、
蕎麦も打てないのに蕎麦を評価できるか、
といった意見を聞くことがあります。
しかしこのような意見が飛び交うのは飲食評論の場だけであって、
他のジャンルでは問題にされていないと考えます。

例えば、自動車評論。自動車を造れる評論家がいるのかどうか。
元設計者がなっている事はあるかもしれません。
でも、自動車を造るには、設計者の他に現場の人間も必要のはず。
しかも、設計であってもトータルの基本設計のほか、
デザイン、車体、エンジン、内装など
詳細設計は専門化してしまって、
今の時代、一から十まですべての設計ができるエンジニアは
皆無ではないでしょうか。
極端にいえば、ドアのノブ、クランクシャフトといった部品一つに、
この道何十年という技術者も多いのではないかと。
レシピの考案と調理が一人で出来る可能性がある料理や蕎麦とは
そこが大きく違うのです。

その他、名選手必ずしも名監督になれず、の定説どおり、
優秀なプレーヤーが監督能力のない場合が多々あるように、
野球評論もしかり。
私見ですが、野球の監督などは極端にいえば選手経験がなくても
人の心理やルール、戦略に精通していればできるのではないかと。
技術の指導や選手の目利きはコーチなど担当部門に任せて
マネジメントに徹すればいいからです。
軍隊の中枢である「参謀」幹部たちが、
第一線で優秀な戦闘員である必要がないのと同じ。
なかなか実践されていませんが、実際のところ会社でも社長は、
優秀な営業マンであり優秀な総務マンであり、
優秀な経理マンであったという経歴はさほど必要ありません。
瞬時の判断力、バランス感覚、人心掌握術、
戦略や企画の考案力が必要であり、
加えて最近は公平性も
コンプライアンス重視の観点からは求められます。
要は、その道、技術に秀でている者だけが、
優秀なマネジメントや評論が出来る、とは限らないのではないか。

料理や料理店評論も同じと考えます。
いくら料理や蕎麦ができるからといって、公平性を欠いて
評論対象である料理人や料理店に癒着してしまったら、
まともな評論はできないでしょう。
親しくなった特定の店や会社、商品を立て続けに取り上げるのも、
はたして公平性があるといえるのかどうか。
色々便宜をはかってもらっている対象を
そんなに高評価してしまっていいものだろうか。
本当にお勧めの良い店、会社、商品であったとしても、
そこはバランス感覚を働かせて、
極端な肩入れを読者に感じ取らせない配慮が必要だと私は思います。

評価する立場の人は、
評価対象への知識が必要なのはいうまでもありません。
料理評価もしかり。
勿論、料理や蕎麦が出来るにこしたことはありませんが、
必須の条件ではないということです。
ブレのない評価基準、
どうやったら公平性を保っていけるかと考え続ける姿勢、
そして一番大事なのは、
必要とする読者の立場にたっての評価姿勢でしょう。
俺はこんなに詳しい、知識があるぞとばかり、
教えてやるといった態度では、初心者は信服させられるでしょうが、
ある程度のレベルの読者には受け入れにくいと考えます。