第684回 友里征耶と客を斬る その16料理自体の描写がない

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  • 2005年6月24日(金)
私の本やコラムに対する批判の一つに、
料理そのものに対する記述の少なさの指摘があるようです。
料理はうまいか、うまくないか、食材の質はイマイチだ、
とか漠然としたコメントが多いのを指しているのだと思います。
確かに私は料理そのものというより
客層、経営方針、そして料理人の性格など
今までの料理評論家、フード・レストランジャーナリストたちや
先達の自腹ライターたちが取り上げなかった視点で評価するのを
ウリにしています。
後発者としては、ただのシビアなだけの論調では特徴が出ず、
埋没してしまうからですが、
与えられる掲載スペースには限りがありますから、
料理のヨイショを主体にしている人や
料理人へのヨイショを主体にしている人と比べたら、
料理に対する詳細な記述が少ないのは仕方がない面を
ご理解いただきたいと思います。

弁解と受け取られるのは本意ではありませんが、
私は他の人とはまったく違った切り口、論点が
ウリであり特徴だと自負しております。
当たり障りの無い店紹介、
または料理の紹介しか切り口のない評論家やライターたちは、
なんとか自分を目立たせるために、
無理に大仰な、派手な表現をつかって
オリジナリティーを出そうと努力しているようですが、
果たしてそれが読者に有効なのでしょうか。

拙著2巻目の巻末にも書いたのですが、
あのようなプロレス中継のような言い回しは滑稽なだけで、
肝心の的を射た評価ではないと考えるのです。
何を言いたいのかわからない、
長島茂雄氏のコメントと同じと考えます。
「自分の羽を抜きながら機を織る『夕鶴』を連想した・・・」、
「神様からひらめきのご褒美をいただいて
生まれた料理人会心の・・・」。
私が特に笑ってしまった描写の代表です。
前者は大谷浩己氏、後者はマスヒロさんの
それこそ会心の一作なのでしょうが、
いい歳をした大の大人が、
よくまあ恥ずかしくもなく書けたものだと感心しました。
少女雑誌への投稿ではないのですから、
「夕鶴」と料理がどうリンクするのか。
神様からいただいたと表現するほど凄い料理なのか。
またそのような表現以外に書き表せないものなのか。
結局は無駄な修飾語や固有名詞の羅列なだけで、
肝心の料理自体の表現になっておりません。
単に「感動するほどおいしく感じた」と言うだけのことでしょう。
私も人のことは言えませんが、
彼らもたいした文章力を持っているわけではありません。
文学的表現は小説家など専門家にまかせたほうが
恥をかかないのではないでしょうか。

「はんなりした美しさを失わずに奥深い地味に到達している」、
「食材と出汁のそれぞれの役割を精密に計算した上での
渾然一体となった味わい」、「まったりだ」。
最近は
「生牡蠣とアスパラの出逢いはとても幸福感に満ちたものだった」、
「香りが鼻腔に抜けるほど・・・」
とかの表現も流行のようです。
だた単に相性がいい、香りが印象的でいい、
というだけのことなのですが、
なんとか料理を必要以上においしく表現しよう、
料理人を持ち上げようと、
読者にはさして有効とは思えないヨイショを
自分なりに目だって表現しようとするから、
こんなプロレス中継になってしまうのです。

決して自己弁護に終始しているつもりはありませんが、
皆さんも彼らの文章をさらりと読み流さないで、
じっくり味わってみてください。
何をいいたいのかわからない、
また言いたいことは同じではないか、
と中身はほとんどない、
修飾語やオーバーな表現だけのものであることに
気づかれることと思います。
友里的に言わせて貰うならば、
彼らは独自の切り口も問題意識もまったく持っていない人たち。
さして文章力があるわけでないのに、
無理して自分を飾ろうとする自己顕示欲から、
無駄な修飾語や言い回しの競争をしているのです。
他の人と差別化したいがため、
そのような言い回しに固執するのでしょう。
良く読み込めば読んでいるほうが赤面するような
滑稽さしか残らないと考えます。

昔聞いたことがあるのですが、
頭脳明晰で理路整然とした人の発言は、
複雑ではなく誰でもわかる簡単な表現に徹しているとの事。
前述の長島茂雄氏とは対極に位置する能力の人ですが、
私も明晰でもなんでもない凡庸な素人ですが、
せめて簡単に述べることで頭脳明晰な人間に近づきたい、
複雑な言い回しを多用して実態以上に頭が悪いと思われたくない、
といった自己顕示欲で彼らと違い簡単に表現しているのです。